晤郎さんが結びなおしてくださったご縁①

☆私が断ち切ったはずの縁

・23歳まで隠し続けてきたこと

ある日突然、自分の両親の他に両親がもう一組いると分かったら、あなたはどう受け止めますか?

私の場合は、高校入学のその日でした。
賑やかな教室で、親が揃えてくれてた提出物をもう一度確認していて、その書類を見つけました。
本当の母
本当の父

時間が止まるというのを初めて経験した瞬間でした。
そのあとの日常のすべてが他人事のように過ぎて行ったあの日。

両親が隠していることだから、私もそれ以上知る必要はないと誰にも語らず、これまで通りに過ごしていました。
23歳までは。

・離郷

23歳で、九州から北海道に一人で引っ越しました。
収入は少なく、携帯のラジオを質屋さんで安く買って、それが唯一の情報源。
< 晤郎ショーと、私の200円のラジオ

両親の前では、なかなか自分を殺して生きることが多かった。
公務員になって事務職に就けさせたいという親の夢。
そこが私の個性に合うか合わないかの視点が無かったんですね。
でも面と向かって「違う」というのはなんだか申し訳ない。
懸命に育てて下すったのは分かっていますから、言えない。
そんな状況から誰も傷つけずに抜けだすには、故郷を離れるしかなかったんです。
日高晤郎ショーの9時間を、せっせとカセットテープで録音していたあの頃を思い出した夜。

・日高晤郎ショーとの出会い

だから遠い地での新しい生活は、苦しかったけれど楽しかったですね。
ただ金がないので、ごろんと横になってラジオはよく聞いていた。

当時、土曜は仕事が休みだったのも幸いして、私は日高晤郎ショー知り、丸ごと聞き始める事ができました。
これ、幸運でした。

私にとって晤郎ショーの一番の衝撃は、日高晤郎という人が、不特定多数が聞いているラジオの番組でご自分の出自を隠すことなく語っていたことです。

それも、淡々と。
極めて自然に。

聞き続けながら、私も出生の事を隠すのをやめようと決めました。
同時に、日高晤郎さんという芸人さんに強く惹かれ始めましたね。
人生の大先輩として。
ファンというより、尊敬する大先輩というのが、私の入り口でした。
万年筆と便箋

☆あなたの大切な人に、【ありがとう】を伝えてますか?

それから私は毎週日高晤郎ショーを丸ごと200円のラジオで聞くようになり、益々魅了されていきました。

数年後には、番組に手紙を出すようになり、しばらくするとそれが毎週投函となり、やがて日高晤郎さんにも私の名前を憶えていただくようになったんです。
まだこの頃は、ラジオネームではあったのだけれど。

それがやがてラジオネームをやめて、名前を名乗るようになる。
で、あるホール公開の折に晤郎さんがコーナーの終わりこう仰った。

あなたの大切な人に、【ありがとう】を伝えてますか?
雪まつりホール公開 2015

・生みの母

生みの母は、私が子供の頃よりちかくにいた人でした。
ずっと優しく接してくれていた人で。
何度も、あ~このおばさんの子どもだったら良かったななんて思う事もあった人。

23歳で晤郎ショーに触れて、そのあとずっと後、私が父になったのを機に手紙のやり取りをするようになったんです。
でもずっと、「おばさん」として。

番組では読まれてませんが、晤郎さんにはこの経緯をお手紙にして報告させていただいてました。
なんといっても、私の出自に関して考えをあたらめて下さったのは、ラジオの向こうの日高晤郎さんでしたから。

そんな生みの母は、その時人生に大きな喪失を抱えて、生きる気力を急速に失いつつありました。
これは切なかったですね。
もしこのまま行ったら、私は一生「おばさん」を「母さん」と呼ばないまま。
それでいいのか?
後悔はしないか?

そんな私の葛藤をご存じの晤郎さんが仰った言葉が、ホール公開の時の、あの言葉だったんです。
「あなたの大切な人に、【ありがとう】を伝えてますか?」
日高晤郎さんとアシスタントの早川舞子さん

< 晤郎さんが結びなおしてくださったご縁②へ続く

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