日高晤郎さんと、六代目三遊亭圓生さん
☆圓生の録音室を読んで
手元に、圓生録音室の初版本がある。
この本を実は、千の杜東札幌分院で読み終えた。
まぁ、読み終えたと言っても、大先輩との待ち合わせ場所や自宅でほとんど読んでいて、残り数ページだったのだけれど。
この本の事は、後日触れるとして。
この本、今では出版社を変えて世に出てるので、日高晤郎さんファンであれば是非、ご一読をお薦め。
芸に対する姿勢や取り組み方の随所に、晤郎さんを感じられるから。
つまりはこの本。
圓生さんの芸を音声として遺した大事業「圓生百席」制作の舞台裏の話。
著者の京須さんは、圓生百席の企画者でもあり製作者なので、内容が濃い、そして読みやすい。
この本を読んで、改めて思う。
現在の時点での話だけれど。
日高晤郎さんの悲劇の一つは、圓生さんに対する京須さんのような協力者に恵まれなかった事だと痛感させられる。
芸人を後世に遺すのは、芸人さん自体の力が必要なのは当然だが、それだけでは成立が難しい。
その芸人さんの良き理解者であり、遺したいという正しい情熱と誠実さが必要だと思うのだ。
日高晤郎さんを、私たち世代だけの記憶として留めればよいというご意見はよく耳にする。
本当に、あちこちの場面で耳にする。
だからこのままでは、いずれ僅かな気配を残し消え去っていき、記憶はそれぞれの墓の中にと埋められていく。
そして、生まれる時代が違ったというだけで、次代の、晤郎さんやその言葉や生き様を必要としている人たちにはほとんど何も遺らないのだろう、このままで行けば。
でもそれって、狭い了見だと思ってる。
千の杜で読書を終えたのには、理由があった。
直接晤郎さんに問いかけたかったのだ。
「圓生さんに対する京須さんのような存在が、晤郎さんにいらっしゃいませんか?」と。
素人では駄目だ。
プロで、晤郎さんの現場を知っていて、晤郎さんの本当のお人柄に触れて、信頼を勝ち得ていて、晤郎さんを後世に遺すことが自分の使命だとその軸をブレさせていない人。
そういう方に先陣を切ってほしい。
心から私にそう思わせた、圓生の録音室。