1931年11月29日長唄三味線方の杵屋勝東治の家に生まれる。10代で長唄の名取「杵屋勝丸」として深川芸者衆に長唄や三味線の稽古をつける。
人柄は、豪放磊落、面倒見の良い親分肌で、金遣いも大胆だったと聞いている。一方、芝居に関しては、日常生活の一挙手一投足全てが糧と考えられていたらしい。
23歳で大映と専属契約。映画デビューは1954年「花の白虎隊」
1960年「不知火検校」で役者としての評価が上がり、1961年「悪名」そして1962年「座頭市物語」で不動の地位を獲得。
また1961年に婚約、翌年に結婚。相手は中村玉緒さん。「江戸へ百七十里」にも塚越助左衛門としてご出演されている中村鴈治郎さんの娘さんである。
1967年、大映より独立し、勝プロダクション設立。独自の映画製作開始。テレビドラマも制作するようになっていく。
1981年、生み出すためなら金銭に糸目をつけない豪胆な勝作品の反動もあり、勝プロダクション倒産。
1978年あたりから関係者含め、アヘン、大麻、コカインなどをたびたび所持し、書類送検や逮捕されることもあった。ただご本人は、これらも芝居の糧と捉えてらっしゃったようである。

1996年7月下咽頭癌発症。治療中でも飲酒喫煙は止めなかったという。
1997年6月21日、逝去。享年65歳。
葬儀は、築地本願寺。

映画デビューを勝先生に報告する晤郎さん

日高晤郎さんが親元を離れ役者の世界に入ろうと決めたとき、親御さんは大反対。
そこで勝先生が細谷家に出向き親御さんの前で「どうか新吾を送り出してやってください。きっとコイツは何かになれるヤツです。どうか。」と、土下座までして了解を取り付けたという話は有名。
「新吾、目の前の金に飛びつくな。そして売れるなら遅く売れてこい。お前みたいな奴が遅く出てくると怖い。どうせなら怖いやつになれ。」
勝先生が、そんな時期の晤郎さんに伝えた言葉である。

ちなみに勝先生の代表作座頭市。
勝先生はファンに請われればサインを厭わず書いてくださったらしい。
そのサインは毛筆で中央に座頭市の絵がサラサラと描かれてある。実はこの元絵は、大映時代新吾少年が描いた座頭市だったのである。
勝先生と晤郎さんの合作「座頭市」のサイン

日高晤郎ファンには強く記憶に残っているあのスーパーサンデー
大映で別れて以来会うことのなかった師匠との数十年ぶりの再会を見たくて、収録会場のSTVホールには多くのお客様。
しかし大雪の影響で飛行機が間に合わず。
延着した飛行機からホテルに着いた勝新太郎先生は、まだホールに晤郎さんと多くのお客様が残っていると聞いてすぐにホールに向かわれ、感動の再開と万雷の拍手。
その動画は今も残っています。

サングラス姿で登場する勝先生。
それをキラキラした少年の目で見つめる晤郎さん。
一瞬の間。「先生、サングラス外して目を見せてください」という晤郎さんのまっすぐな思い。
静かにサングラスを外す勝先生、そして抱擁。
「お前がね、違う人になっていたら俺は、ずっとサングラス外さないつもりだったんだよ」
そして客席に向かって「新吾がお世話になってます」と深々と一礼。
今思い出しても泣けてきます。
勝先生との再会。スーパーサンデーにて。
「久しぶりだけど、いつも俺はお前の傍にいたよ。時々お前は、俺を思い出してくれてたろ。思い出してくれたなら、その時その人は傍にいるんだよ」この日、勝先生が晤郎さんにかけた名言です。

※思い出したら順次、エピソードなど加筆していきます。