1931年8月29日京都生まれ。
生後6ヶ月で歌舞伎界の三代目市川九團次の養子となり、19歳の時に三代目市川壽海のもとへ養子縁組、同時期に八代目市川雷蔵を襲名。
22歳で映画俳優に転身。所属は大映。デビュー作は「花の白虎隊」
1962年に、「江戸へ百七十里」
そして1963年には、のちに代表作と評される「眠狂四郎」シリーズが始まる。
人柄は、穏やかで上品で思いやりがあって、礼儀正しかったと証言する人が多い。
姓名判断にも傾注されていたみたいで、折に触れて周囲にも盛んに改名を進めたとの話もある。
足腰と腸の具合がもともと弱かったとの話も聞く。
大映では、勝新太郎先生と共に「二枚看板」と評され、カツライスとも呼ばれた。
1968年6月直腸癌と判明。治療の傍ら映画撮影を続けるが、1969年7月17日37歳で逝去。葬儀は池上本門寺。

日高晤郎さんがまだ、細谷新吾だった頃。大映の撮影所で、雷蔵先生に心酔する新吾少年の表情に感服。
「君と僕は、生まれも育ちもあまり変わらん境遇やのに、なんで君の表情はそんなに明るいんや。」と仰ったとか。
その後、演劇の勉強のため新吾少年は、劇団くるみ座の毛利菊枝さんのもとで特待生として勉強することになるが、そこの学費を新吾少年に内緒で全額支払っていたのは、雷蔵先生だった。
江戸へ百七十里」で、雷蔵先生は新吾少年を起用。
晤郎さん映画デビュー。師匠の市川雷蔵先生と。
新吾少年が映画界を離れ、東京に行くと決めたときは「これからまだ君と一緒に映画を撮りたかったのに」と別れを惜しまれたとか。
「ええか、売れてないと思ったらあかん。売ってないと思いなさい。今はその時期と違う、今は自分への投資の時期や、だから売ってないと思うんや。」この時の雷蔵先生の言葉も晤郎さんのつらい時期の支えになったと後述されてました。

そうして京都を離れ東京で飛鷹一(ひだかはじめ)と改名、テレビドラマやレポーターとしての活動を始めた新吾少年。
さらにその後、日高吾郎と改名し歌手活動を開始したが、生活は苦しいそんな中、雷蔵先生から吾郎さんの下宿に届く葉書たち。
「元気でやっていますか。ガンバレガンバレガンバレ」との雷蔵先生の返信に、「私はとても順調に行っています。」と書き送る吾郎さん。
雷蔵先生から新吾青年への葉書
そんな吾郎さんからの返信に、「見てみい。本当は大変なのにこうして見栄張れるってのは大事なことや。見栄張る気力を持っとるというのが大切なんや。」と周囲に仰っていたとか。

東京で雷蔵先生逝去の報を受け取った吾郎さんは、しばらく泣き明かした。
役者を目指していた俺が、何故歌手として雷蔵先生の訃報を聞かねばならんのだ自分んは何をやってるんだと悔やんだという。
そして日高晤郎と改名した晤郎さんは、北海道での仕事の折、ラジオ番組を持つという出会いに恵まれる。
そこから、聴取率トップで日本最長の生番組・ウィークエンドバラエティ日高晤郎ショーに発展していく。

ちなみに、日高晤郎さんが生涯大事にされていた「外郎売」は、二代目市川団十郎作。
その二代目市川團十郎の門下生の一人が、初代・市川雷蔵なのである。

※思い出したら順次、エピソードなど加筆していきます。