寄席とは何か?
☆寄席通い
日高晤郎さんが常々仰っていた、話芸の怖さ。
これは全く同じように、三遊亭圓生さんも仰っています。
素人の私なんかには、これまで分かったようで分かっていませんでした。
それが今年、とある企画の出版に向けて(植物関連)動くために東京に通って(数歩進みましたが、まだ目途は立っておりません)、用事を済ませた翌日に、寄席に通う事数度。
5月、6月、7月、そして今回の11月。
前にも申しましたが、私はさいわいに、日高晤郎ショーで耳を鍛えられております。
なので、すんなり馴染めました。
また、昼の部と夜の部があるのですが(これが無い寄席もあります)、ここで入れ替えがある寄席と、無い寄席がある。
それで基本的には昼夜入れ替えが無い、新宿末廣亭が良かろうと、5,6,11月は末廣亭1本で楽しみました。
とにかく、私がわざわざ北海道から東京まで通うってことは、それだけの魅力が寄席には有ったという事なんです。
ではここで、寄席とは何か?についてまとめてみましたので、ご覧ください。
☆「寄席」とは
「寄席」とは、簡単に申しますと、日本で発展した伝統的演芸の舞台の事。
歴史的に見てみますと、江戸時代(1798)上野の下谷神社で始まりました。
当初の寄席は、神社や寺の境内で開催される小規模な催し物。
これらの会場では、講談、落語、浪曲、漫才などの口演芸術が披露され、庶民の娯楽として人気だったようですね。
江戸時代中期になると、寄席は都市部での娯楽として重要な役割を果たすようになります。
この頃、寄席は商業的な施設として確立し、木戸銭を払って入る専用の建物が建てられるようになりました。
これが、現代にも残る「寄席」の形ですね。
現在の寄席の主な目玉は、落語です。
余談ですが、何でも「落語」と言うのはテレビ向けの言葉らしいですね。
オチがある話なので、落とし話、それで落語。
本来は、「噺」というのが正しいようです。
噺(はなし)を専門にする職が「噺家」というんだそうですね。
話を戻しまして、現在の寄席の主力が落語になった理由。
これは噺家が、寄席を唯一無二の修行の場ととらえているからだそうで。
この話は、六代目三遊亭圓生さんの著書にも書かれております。
つまり、寄席の噺(落語)には、修行の場ですから未完成のものもみられるんですね。
だから、面白い。
噺家(落語家)が真剣に高座で仕上げるために額に汗して話してたりする。
客席のウケが悪い場合は、高座の噺家さんが追い詰められるんですから。
明治時代には、映画やラジオの普及により、寄席の人気は一時的に衰えました。
そんな中、連綿と江戸の噺は受け継がれて、第二次世界大戦で敗戦した日本。
この状況で人の情、日本人の心根を語る、噺の価値が再評価されました。
ラジオやテレビや寄席を通し、名人と言われる方々の芸が、本や音声データとしてわずかに残されてます。
ここで、レコード化されたのが「圓生百席」なんです。
さて、現代の寄席では、伝統的な演目のほか、新しい形式の漫才やパフォーマンスが披露されることもあります。また、若い世代の芸人が伝統的な芸を継承し、新しいスタイルを取り入れることで、寄席文化はこれからも受け継がれていくのでしょうね。でもけして、変えちゃならない部分は、どうぞそのままでと願わずにはいられません。
何と言っても寄席の魅力は、その高座と観客との一体感です。
演者と観客が直接向かい合い、阿吽の呼吸で一緒に芸を練り上げていくこの形は、デジタル時代にあっても、色褪せない生きた芸の場。
だから、貴重で面白く、娯楽の場でありながら、学びの場でもあるんです。
☆寄席の定席
最後に、これはお伝えしておかねばと思います。
休みなく開演している寄席の事なんですが。
現在、東京には「定席」と呼ばれる寄席が、以下のように四ヶ所あります。
新宿末廣亭
鈴本演芸場
浅草演芸ホール
池袋演芸場
(池袋演芸場にはまだ行ったことが無いので、明治時代の高座の絵でお茶を濁す)
以上の寄席、日高晤郎ショーの構成や晤郎さんの話芸に魅せられた方には、胸を張ってお薦めいたします!