日高晤郎ショー・みとせの流行り歌1997年 その1
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☆ 日高晤郎ショーの1コーナー「みとせの流行り歌」十五回目の記録
平成9年です1997年、16年前。
この年ですよ、遠軽町へ行きました。
9時間生放送、思い出です。
あの仙人踊りだとかね、街の人が皆出て。
なんだかあの、古里だなここっていう。
それからあの前歯が片仮名のハの字に残っている苺農家のじいちゃん、通称いちごじじい。
一期一会の会い方をしましたけれども。
町長を始めみなさん温かくてね。
この年にね、ディレクター。
良い事ばかりではないです、石部ディレクターに替わりました。
そこで2年間、彼は何の仕事もせずにそこで珈琲飲んでましたね。
でも彼が何もやらないから良かった。
私が自分一人で全部やって行かなきゃならないなと思って、一人で語りをやって。
そして百年先を見据えた男ヒロイイサミ物語、あれを語って日本民間放送連盟ラジオ娯楽部門の最優秀賞。
これが私にとっては個人の語りでは二つ目の。
一つ目は峠道。
これで何かもらったろと言うんですが、当時の社長からネクタイ1本もらっただけですから。
日本民間放送連盟と言っても会社が作るもんですから、個人が語っても個人の語りっていう評価は無いんですね。
なんか角砂糖かなんかくれりゃいいじゃないかなぁ。(スタジオ笑)
ネクタイって、俺、ネクタイしない男だもん。
あんなもんしてごらんなさい。
芸人の首絞めるだけだあはっはっはっはっは(スタジオ笑)
、、、ちょっとみんな努力足りないよ、みんなね(スタジオ笑)
あたくしはこの年ね、財産無くした思い出があるんですよ。
勝先生がお亡くなりになった。
この年なんです、享年65。
先生より長生きしました。
そして12月の24日。
享年77。
日本映画を代表する俳優がもう一人。
三船敏郎さんがお亡くなりになった。
悲しい年なんです。
どうしてたと思う?
勝先生が亡くなられた時。
雷蔵先生の時は下宿で一人で泣いていましたからね。
勝先生の時は全部30年間の空白を勝先生から頂きましたから。
私自身が生きてやってる、それも私流でやってるってことに肩叩いて「新吾、それで良いんだよ」って仰ってくださって全部済みましたからね。
この年レコード大賞ではなく紅白歌合戦初、岩本公水。
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