木村善幸さん鑑賞への基礎知識④
☆本日最終日
今日は、木村善幸さん鑑賞の基礎知識としてラストです。
テーマは、津軽五大民謡について。
では参ります。
☆これだけは知っておきたい、津軽五大民謡!
津軽には、五大民謡というのがあります。
これらは、貧しく各地を回る芸人(ボサマ=盲いたお坊さん)の、食べるための芸でもあるようです。
津軽三ツ物と言われる民謡が、以下。
- 津軽じょんから節
- 津軽よされ節
- 津軽おはら節
更に、この3つの民謡に以下の二つを足して、津軽五大民謡といいます。
- 津軽あいや節
- 津軽三下がり
津軽三味線を味わう上で、この5大民謡の背景も知っておくと、より味わいが増す事、請け合いです。
個別に少し見て行きます。
☆津軽じょんから節
現在の青森県黒石市にあった浅瀬石城。
ここは千徳氏の居城で、350年間、津軽一円の代官として栄えていた。
1597年2月に、同盟を破棄して攻め入ってきた大浦氏に滅ぼされ廃墟となった。
その戦のおり、城の下にあった千徳氏の菩提寺である神宗寺の墓まで掘り返そうとする大浦氏。
この暴挙に、神宗寺の住職、常掾(じょうえん)は、抗議の意味を込めて本尊を背負い、上川原(じょうがわら)に身を投げたと言います。
その常掾和尚を偲び人々が歌ったのが、津軽じょんから節の原型だそうです。
つまり、常掾川原、もしくは上河原節から来てるのでしょうか。
こんな感じです。
元々、このじょんから節は、新潟のモノであったそうです。
言わば、百姓一揆の精神を帯びた歌だったとか。
それが新潟瞽女(にいがたごぜ。ごぜとは、盲目の女芸人を指します)によって全国に広まったのだとか。
つがるにはやはり北前船でしょうか。
津軽じょんから節には幾つかの分類があります。
私の調べなので、正確ではないかもしれませんが。
新旧節=さあて、これが良く分らない、、、なんでしょう??
旧節=明治までの早いテンポの曲。
中節=昭和初期までの、テンポを少し落とした曲。
新節=昭和初期以降の、中節よりテンポを少し上げた曲。
新旧節=さあて、これが良く分らない、、、なんでしょう??
ともあれ、津軽じょんから節の三味線基本は、民謡の伴奏(唄付け)
演奏のみ抽出したのを、曲弾きと言うのだそうです。
☆津軽よされ節
この民謡は、西日本に源流があるようですね。
津軽に伝わったのは、1840年あたり。
盆踊りとして定着したようです。
そして大正時代に、黒川桃太郎という方が、今に伝わる津軽よされ節の形に整えたのだと言います。
これも、唄付けの伴奏が基本。
そしてこちらは木村善幸さんのコンサートで聞いたのですが、「辛く苦しい嫌な世よ去れ、新しい希望の世よ早く来い」の意味が込められているとか。
コロナ禍真っただ中に聴いたこの曲は、今も胸に残っています。
☆津軽おはら節
津軽小原節、とも書きます。
これは、熊本の天草地方や島根の「はいや節」が源流なのだとか。
それが青森南部に伝わり「あいや節」になり、そして塩釜甚句に変化し、そこから津軽小原節になったのだと言います。
その土地その土地で馴染むように曲が変化するって、まるで生き物のようですね。
そしてその分、歴史も沁み込んでいるのだと感じます。
さて、以上が津軽三ツ物。
あと二つ。
☆津軽あいや節
おはら節の源流と微妙に違うのでしょうか?
こちらには牛深市が起源と書いてありました。
方やおはら節は、天草地方が起源の一つ。
まぁ、天草地方の牛深市ですから、同じと言えば同じなのですが。
それで衝撃なのは、今これを調べていて知った事実。
もう牛深市は無いんですね、、2006年に市町村合併で天草市になったとか。
まぁこれは余談でしたが。
津軽あいや節、明るい音階で歌われる歌です。
南国の香りが、歌に息づいているという事でしょう。
感慨深いものがあります。
☆津軽三下がり
これはですね、中山道が起源です。
中山道追分宿。
追分というのは今でも言葉や地名に残っていますね。
道が左右に分かれる手前の、分岐点のことです。
中山道の追分の宿で、馬方や飯盛り女に歌われていた歌が、各地に広まって行ったのだそうです。
津軽三下がりは、それが津軽に定着したものとのこと。
陸路で東北を上がってきたのでしょうね。
☆おしまい
さて、4日間にわたって書いてきました、木村善幸さん鑑賞への基本知識。
これにて終了です。
木村さんのコンサート直前の待ち時間に調べていたこと、今頃ですが記事にしました。
9月の、木村善幸さんキタラコンサートの前に、少しでもお役に立てたなら嬉しいです。
では、また9月に。
キタラで!
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