☆「日高晤郎ショー 最後の日」を聴くという事

「日高晤郎ショー 最後の日」9時台Part5から続く。

☆聴きながら視る。心の動きを書く。

この最後の放送記事を書き込み始めてから、その日の録音を繰り返し聴いている。
録音をただ正確に書き写すなら、それはコピーにしかならない。
だからそれはやらない。
また、この日は晤郎さんの発声発音が時間を追うごとに不明瞭になっていってる。
いや、正確に言うと、不明瞭な部分が増えていってる、か。
その分いつもより耳を澄ませて集中しなければならない。
集中し、聞き取り、blog掲載に相応しい長さになるよう文章として少々まとめなおす。
放送の独特の「間」や「韻律」を言葉に置き換える。
そうするともうこれは、純粋な晤郎さんの発した言葉や、純粋な晤郎ショーの放送記録では無くなるのだ。
おおよそでは記録と言えるが、詳細な部分では個人的読後感と言ったものに近いのかもしれない。

ただ、午後の部に入ってからは、日高晤郎さんの言葉の一言一言をなるべく綿密に記して行くつもり。
なぜなら、午後の部をやれるだけの体力は残ってらっしゃらなかったはずだから。
だから午後の部は、特にいっそう、晤郎さんの命から絞り出す一言一言であったはず。
私には、午後の部全体が「遺言」であったように思えてならないのだ。
しかしもう一度言うが、コピーではない。
微妙に文字にして伝わりやすいように、少々の工夫は続ける。
晤郎さん便箋と万年筆

☆心の動きを書く。全体像が浮かび上がってくる。

集中し繰り返し聴く最後の放送。
まずは言葉を追う。
そしてそれを繰り返すうちに、やがてはその時の晤郎さんの心情まで追うことになる。
更にそれを繰り返していくと、その日の晤郎さんの心境に自分が近づいていると錯覚する。
ああ、こんな思いでこの言葉を発してらっしゃったのだなぁとか。
この話はこういう思いでこれくらいの寸法にされたのだなぁとか。
幸い私の手元にあるのは、あの日の放送のデジタルデータ。
繰り返し聴いても、擦り減ったりしないもの。
これからもクリアなまま、何度も何度も聴いていく。

☆細部を追う。俯瞰で識る。

生の音声は、まだ辛くて聴けないという方が、私の周りにも多い。
ではせめて、私を通して文章化したものなら心傷めずに読めてあの日を追憶できるのではないかと言う思いが、私の中にある。
もう一つ。
最後の日、日高晤郎さんが番組を通して私たちに伝えたかったメッセージを改めて読み取れたならと言う思いもある。
そういう心意気はあるのだが、果たして完全にできているかと言えば、なかなか、、、。

さて、blogの方は9時台が終了して、いよいよ10時台に突入する。
頑張りすぎずに、頑張る。

「日高晤郎ショー 最後の日」10時台Part1へ続く

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