きわめて私的な、母の思い出話の1

☆生母の誕生日、私からの質問

2020年5月13日は、私を生んでくれた母の85回目の誕生日。
お祝いに届け物を頼んでいたのだが、なぜか1日前の12日に到着したらしい。
(期日指定って、なんなんだよ~~ぅ(ToT)/~~)
母から夜に電話がかかってきた。
満面の笑顔が浮かんでくるような声。
そんな声聴かされたら、私だって数倍嬉しくなる。
母ったら、そこから1時間18分もしゃべり続けた。
な~んと!
かける7で、日高晤郎ショー1本分の時間だぞ (; ・`д・´)

色々しゃべったが、ときどき同じ話繰り返したり、以前に聞いてた話を「これは話してなかったけど」などと超トンチンカンなことを真面目に語るので、熱心なあいづちを演じることに疲れて来つつあった私。
不意にスイッチが入った。
このblogを書いていることもある。
今、私はこんな強い思いに駆られているのだ。
「生きている内に聴いていきたいことには、躊躇の必要一切なし!」

あのね母さん、俺の生まれた頃の思い出って何?

☆母の思い出話・私を出産した経緯

嫁ぎ先の家を、もういいと飛び出した母。
なにが「もういい」なのか聞くのは野暮だったので流した。
飛び出してそのあとしばらく経って、もういいと離婚したらしい。
やがて、変だなと思ったら私がお腹にいたらしい。
(不覚にも私は、ここで大笑いしてしまった。)
病弱だった母は、私を出産すると死ぬかもしれないという状況。
でも、もういいと出産したらしい。
(なんだよ、もういいって。ここでもう無理、笑いすぎて死ぬかとおもった)

生まれた私をみて、人生で初めて、人のために死ねると思ったらしい。
この子を守って一生を送ると決心したらしいが、周囲から「病弱な女が一人で育児したら、母子ともに死ぬ」と言われ続け、追い詰められたらしい。
でもその頃、東京や神戸や福岡のお医者さんから次々プロポーズ、「子供も一緒に、是非」と。
(ど、ど、どうして俺を連れて医者と結婚しなかったの?と本気で質問しましたよそりゃあ)
母は看護婦で、お医者さんたちのつながりでそういう環境だったらしい。
で、母が玉の輿縁談をぶった切り続けた理由が凄まじい!
「知らん男に、この子を任せられるか!」
(心の中で、母のばか~と叫んでしまいましたぜ)

そして私と10ヶ月一緒に暮らしたとの事。
そこで母は、いよいよの大病をする。
結核の診断が下されたという。

長くなるので、続きは後日m(__)m

< きわめて私的な、母の思い出話の2へ続く

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