日高晤郎ショー 東日本大震災報道・地震当日

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☆2011年3月11日、私の場合

3.11 PM2:46~3:30

金曜日。
私は事務仕事をしていた。
急ぎの書類で、その夕方までに先方にFAXしなければならない文書を、立ったままデスクに数枚拡げて最終チェック中。

不意に、目まいがした。
立ち眩み?
デスクに広めに両手をつき、卓上時計を眺める。
20秒、、、まだ収まらない。
40秒、、、絶対に変だ。
1分、、、脳か、心臓か、とにかく危険信号。
身体の不調を誰かに告げようと顔を上げたら、同室のほどんどの同僚が怪訝な表情をしている。
え?みんな感じてるのか??
これ、、、地震か???
「今、もしかして揺れてる?」
私が問うと、一番近くに居たRが目を見開きながら答えた。
「なんだこれ?」
私の対角線に居たFが、これ、地震じゃないですよね?

巨大な氷海に似たうねりが収まったのは、私の日記によるとおおよそ4分50秒。
一人の同僚は、5分23秒と言い張っていた。
とにかく、長かった。
絶対何か変だよとTが、テレビのある少し離れた休憩室に走る。

10分経っても戻ってこないT。
「サボってんじゃん、あいつ」とSが電卓を叩きながらボソッとつぶやく。

昨日の午前中まで降り続いた猛烈な雪。
一転この日は気持ちの良い青空。
窓の外からは、札幌にも春が近いことを告げてくれる柔らかな陽射しが注ぎ込んでくる。

突然、Rが叫んだ。
手には、この時代一般に普及しだしたスマートフォン。
「みんな、来て!見て!!」

海が、町を呑み込んでいた。

3.11 夜

心ここに在らずで仕事を片付け、帰宅後すぐにテレビにかじりついた。
夕食を摂る気力も失せていた。
連続する巨大地震。
想像をはるかに超えた大津波。
そして、福島第一原子力発電所の損害と原子力緊急事態宣言発令。

日常が、脆くも崩れ去って行く。

私の膝の上には、まだ小さかった長女と長男。
二人を抱きしめている時の体温だけが、私の理性をつなぎとめてくれていた。

☆そして、3月12日土曜日

この日は仕事が全て休みとなった。

いたたまれなかった。
朝早く、子供たち二人を連れて、街へ出た。
この日正式に開通する大通地下歩行空間(札幌駅・大通地下街間)を少し見て、午前7時45分あたり、テレビ塔近くのベンチに腰を下ろした。

無邪気な子供たち。
青空の下の大通公園。
強がっていたけど、私の心は今にも折れそうだった。
助けてください。
助けてください。
祈りながら、携帯ラジオを握りしめる。

大地震発生から、通常番組のほとんどが吹き飛んでいた。

お願いです。
お願いです。
午前7時58分、ラジオのスイッチを入れた。
イヤホンを、片耳に。

もしも、晤郎さんじゃなく、ただのニュースだったら、、、
怖かった。
自分は、わずかに残った理性をつなぎとめられるだろうか。
怖かった。

7時59分過ぎ。
ニュースを伝えるアナウンサーが、「次は、日高晤郎ショーです」と伝えた。
思わず息を飲んだ。
そして。

イヤホン越しに、8時の時報が鳴った。

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