「言葉」の語源②
☆言の葉
「言葉」の語源①からの続きです。
語源については色々あるのですが、言葉の元の表現に「言の葉(ことのは)」がありますね。
「言の端」と表記したりする。
この場合、言の端々という感じですね、端ではなく端々という事で、多数を表してる。
葉も端々も、多数あるというイメージなんです。
私は、言の端よりも言の葉の語源に比重を置いてます、言葉を使う上での心構えとしてです。
では、言の葉の大元は何か?
多羅葉とも違う言葉の源が、こちらです。
日本最古の勅撰和歌集である、古今和歌集。
この序文、「仮名序」と言います。
今日はこの、仮名序のご紹介。
☆言葉の語源となる仮名序
まずは有名な、仮名序最初の部分から。
大和歌とあるのは、和歌のことです。
「やまと歌は 人の心を種として よろづの言の葉とぞ なれりける」
これはこういう意味です。
和歌というものは、人の心から生じ、多くの言の葉として形を変えたものです、という。
「よろづ」というのは「万」と書きますので、「多く」という事です。
そして。
ここで使われた「言の葉」という表現が、のちの言葉となったという事らしいんですね。
人の心が種で、そこから生長して沢山展開して行った葉。
なんとも鮮やかな表現。
私好きなんです、仮名序。
それから、仮名序の素晴らしさはこのあとを見ても伝わります。
まずは現代語訳から。
☆仮名序(現代語)
日本の歌(和歌)というものは、人の心を源にして生い茂り、いろいろな言葉になっていったものです。
世の中で暮らしている人は、関わり合う色々な事が数多くあるので、それぞれが感じる心に思うことを、見るもの聞くものに託して、言葉に表わしています。
梅の花で鳴く鶯、水にひそむ河鹿蛙(カジカガエル、清流の歌姫とも呼ばれる美声)の声を聞くにつけ、この世に生を受けているもの全て、歌を詠まない命というものはどこにも無いでしょう。
力を込めずに天地をも動かし、目に見えない鬼神をもしみじみとした思いにさせ、男と女を親しくさせ、勇猛な武士の心を和らげるのも、和歌です。
そしてこの歌というものは、世界が始まった時より既に生まれていたのだと言います。
しかしながら、元々世に伝わったのは、天上においては下照姫(素戔嗚の曾孫)の歌であり、地上においては素盞嗚尊(スサノオノミコト)が詠んだ歌が始まりとのこと。
それ以前の神世の時代には、歌の音の数も定められておらず決まりも無く飾り気も無く、ただ心の赴くままありのままに歌うだけだったので、何を伝えたいのかが良く分らなかったという事です。
人の世になってようやく、素盞嗚尊(天上界から地上の神となった。ヤマタノオロチ退治が有名、出雲の神)から、三十一文字という形で歌が詠まれるようになりました。
このようにして花を賞美し、鳥をうらやましく思い、霞にしみじみと感動し、露を愛する心などと言葉の数も多くなり、歌はさまざまに拡がっていったのです。
遠い所への旅も出発する足もとから始まって、そこから長い年月を過ごすように。
また、高い山も麓の塵や泥からまずは生じて、やがて雲のたなびく高さまで成長しているように。
このように、やまと歌(和歌)も、時代を経るにつれて、より確かなものになっていくのでしょう。
☆仮名序(原文に近い形で)
やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、事、業(わざ)繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの、聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男・女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。
この歌、天地の開け始まりける時より出で来にけり。
しかあれども 、世に伝はることは、ひさかたの天にしては下照姫に始まり、あらかねの地にしては素盞嗚尊よりぞ起こりける。
ちはやぶる神世には、歌の文字も定まらず、素直にして、事の心分きがたかりけらし。
人の世となりて、素盞嗚尊よりぞ、三十文字あまり一文字は詠みける。
かくてぞ花をめで、鳥をうらやみ、霞をあはれび、露を悲しぶ心・言葉多く、さまざまになりにける。
遠き所も、出で立つ足下より始まりて年月を渡り、高き山も、麓の塵泥よりなりて天雲棚引くまで生ひ上れるごとくに、この歌もかくのごとくなるべし。
☆最後に
以上、私なりに仮名序を紹介しましたが、いかんせん素人。
多少なりとも現代語訳に無理があるかもしれませんが、なるべく読みやすく訳してみました。
また、原文には句読点はありません。
おおよそこんな形だという程度に留めておいてくださいませ。
「言葉」という単語に込められた美しい思い、少しでもお届けできたのなら嬉しいです。