日高晤郎ショーと、ポリコレ~②
☆ある時の晤郎さんとの会話
私が、こういう手紙を書いたことがあります。
内容は、長男が生まれて、産院の方にお世話になったという話。
この余談として、私は晤郎さんにこういう事を書き添えたんです。
「本来なら、お世話になった看護師さんと書かねばならないのでしょうが、私にはどうもこの言葉が馴染みません。ですので、看護婦さんと言う表現にさせていただきました」と。
長男が生まれたのは2002年12月。
看護婦が、看護師と言う表現になったのが2002年3月でした。
なので、日本語の表記に厳密な晤郎さんには、ここはきちんと断っておかねばならないと思ったからです。
ところが、晤郎さんは放送を通して、こう語りかけて下すったんです。
「和彦さん、私も看護婦さんと言う表現のほうがしっくりいきます。
『ふ』という言葉に込められた、包み込むような穏やかさは、病を治すというあの場所での職を表すのにピッタリなんです。
これまで誰もが、看護婦さんと言う言葉に侮蔑的な意味を込めて使ってないですから。
それよりも、感謝や尊敬や親しみを込めて、そう呼んでいたでしょう?
それが、看護師となったんですから。
今や単に、資格を表す言葉になってしまいましたね。
やはり私も、看護婦さんという言葉の方が馴染みます。
病んだ時に沈みがちになる、私たちの心にまでも届くあの笑顔。
そこには、看護婦さんの方が良く似合うと私は思うんです。」
今にして思うと、そうか、看護婦さんが、男性の看護士さんと併せて、性別の無い看護師さんという表現に統一されたのも、ポリティカル・コレクトネスだったんですね。
性や国籍、それに人種や社会的特定グループに不利益や不快感を与えないようにと行われるポリティカル・コレクトネス、略してポリコレ。
本来は、とても良い考えなんです、行き過ぎなければ。
☆ポリコレ棒と言う言葉
・末期の日高晤郎ショーの心象風景
元々は素晴らしい考えであるポリティカル・コレクトネス。
これが近年、特定の人々を中心に暴走を始めて、もうすっかり社会に馴染んでしまったようですね。
特に、日高晤郎さんが出演されていた、本当のウィークエンドバラエティ日高晤郎ショーの末期では、それが社会に根を下ろしていました。
厳しい表現には波紋が起こり、当たり障りのない無難すぎる表現が何より安全という風潮。
そんな中で、当然、晤郎ショーには風当たりが強くなります。
ラジオから聞いてる分には、晤郎さん丸くなったなぁ等となるでしょうが。
幸いと言うかなんというか、私は晤郎ショー末期にスタジオに通い始めた身。
だから、晤郎さんの周囲の変化が、細かいところまで見えたんだと思います。
最盛期の晤郎さんの奔放さは、周囲が身を挺して守っていましたから、晤郎さんも放送に集中できた。
けれど、最後の方は晤郎さんが放送も仕切りも気を使ってらっしゃった。
時代も組織も人も移ろうものですから、仕方なしと言えばそれまでですけど。
そうなった原因が、ポリティカル・コレクトネスだったと今なら分かります。
・ポリコレの棒とは?
さて、そのポリティカル・コレクトネス。
これには、棒があるんですって。
いえいえ、性別の話では無くってですねm(__)m💦
この言葉。
政治的社会的正当性と言うモノを根拠に、人の発言や行動を、制限したり抑圧したりすることを指します。
そうした制限や抑制を目的とする行き過ぎた行為や発言を、「ポリコレ棒で叩く」と言うらしいですね。
おうおうそういえば、確かに今は棒だらけ、ですね、クワバラクワバラ。
誰もが叩かれたくないから、人は発言を控えるようになり、企業も及び腰になり、映画やテレビ、そして晤郎ショーなど一部番組を除いてはラジオもつまらなくなって行ってた。
そう言う事なんですね。
ポリコレ棒全盛の時代の今、私が唯一ラジオ番組で常に聴いているのは「田村みなみのリアルタイム」
ここは新時代に、実に柔軟に晤郎イズムを受け継いでいる番組だから。
仮にここがポリコレ棒で叩かれるときは、日本が完全に壊れた時でしょうね。
☆ポリコレ棒全盛期に生き残る、佳き時代の息吹
さてこの変な時代。
日高晤郎ショー好きにお薦めの場所があります。
はい。
今年、私は通いました。
魅了されました。
それが、寄席。
2023年12月現在、3000円ポッキリで昼夜入れ替え無しの場合、8時間半楽しめる。
主に噺(落語)ですが、曲芸、太神楽、三味線、手品、紙切り、漫才に漫談、講談、コントなど多種多様の出し物が観られます。
しかも、ここ大事!
ポリコレ何するものぞという毒が健在。
ほんとうに、健康的な笑いがあります。
こんなにバラエティに富んでいて、しかも伝統的な様式美があり、毒もある。
これ、まるでウィークエンドバラエティ日高晤郎ショーなんです。
機会があれば、是非お運びくださいませ。
☆まとめ
日高晤郎ショーや晤郎さんの事を思う時、その外側に吹き荒れて社会を大きく変えて行ったポリコレ棒の行きかう風潮に思いを馳せずにはいられません。
きっかけとなったのは、近年の作品がすっかり地に落ちた作品を次々と生み出してしまったディズニーの、最高経営者の発言でした。
(スターウォーズエピソード7・8・9は、地に落ちてる上に地中にめり込んで慕った勢い、、ああ哀し)
ポリコレ棒、これも過剰に行き過ぎた叩きのめし方をする人が増えて、みんな臆病になったんでしょう。
色んな表現が、色んなマスメディア含めて均一にならされてノペリっとなってしまった。
これではだめですね。
つまりは、表面的に静かに進んで行ってはおりますが、これは言葉狩りでもあるんです。
本来の日本語が(罵詈雑言と言う毒も含んでの意も)消えていきそうで、怖いです。
私たちが、日高晤郎さんに今でもこうして思慕を感じている理由の一つが、そんな変な風潮に負けずに己を貫き通す姿勢と志に憧れるからでもあるのでしょう。
だいたい、兄弟という漢字があるのにわざわざ「きょうだい」と平仮名で表示するなんて、おかしいでしょう?
ああ哀しい国民総幼稚園児時代ってか?
ともあれ、期待してるよ、ディズニー。