三沢光晴さんの御命日
☆夕張市出身の名レスラーの事故
2009年6月13日。
広島県立総合体育館グリーンアリーナ。
プロレスリングNOAHのGHCタッグ選手権試合。
挑戦者として試合に臨んだ三沢選手が、王者の齋藤彰俊選手のバックドロップを受けて頚髄離断により死亡。
バックドロップ直後、動かなくなった三沢選手に西永レフリーが「(試合を)止めるか?」と声を掛けた。
これ自体は通常の確認作業。
普通なら、「まだ(行ける)」などと返答が来て、試合続行となる。
しかしこの時、三沢選手は「、、、止めろ」とだけ答えたという。
これが三沢光晴人生最後の言葉になった。
三沢光晴選手は、私より年齢が一つ上。
余りにも衝撃的なニュースだった。
日高晤郎ショー中継先に出演され、その当意即妙ぶりにあの晤郎さんが絶賛。
双方のファンとして、とても嬉しかった事を覚えてる。
その少し前、札幌巡業でお会いしたばかりだったのに、ネットやテレビの速報に現実感が湧かず、しばらく放心してしまったっけ。
☆遺言
この事故の約二年前、三沢さんは、試合中の自分の身に不幸が起こった時にその対戦相手に渡してほしいと、一通の手紙をしたためていたという。
その手紙は広島の事故後、バックドロップを掛けた齋藤選手に手渡された。
手紙の中身はおおよそ以下の通り。
「重荷を負わせてしまってすまん。俺が受けきると信頼して全力で技を掛けたのだろうけれど、受けきれなかったみたいだ。信頼を裏切る形となってしまった。申し訳ない。これから辛いだろうが、どうかプロレスを続けて行って欲しい。」
この手紙の内容は、没後10年の節目に公開された物。
齋藤選手はこの手紙を読み、自殺を思いとどまり、今でも現役レスラーとしてご活躍中である。
事故の年。
その冬に札幌に見えた齋藤選手は、とても穏やかだった。
全てを乗り越え、自分の進みべき道に真摯に向かい合う背中は、どこか晤郎さんに似ていた。
人の命の終わりの脆さ。
そして儚さ。
この日が来るたび、思い出す。
あの日晤郎ショーで交差した私の二人の英雄の弾んだ声を、私は一生大事にしようと決めている。
お二人の交差のネクストは無かった。
あの日一日限りの輝き。
私にとって6月13日は、日高晤郎さんの御命日と同じ重み。
同じ痛み。
合掌