「言葉」の語源~番外編~和歌の秘密
☆下照姫と素戔嗚尊が分からない
いや実はですね、昨日「言葉」の語源②を書いてて、疑問に思ったことがあったんです。
それはこちら。
下照姫(シモテルヒメ)と素戔嗚尊(スサノオノミコト)の和歌についてなんですが。
気になった箇所はこの部分。
「世に伝はることは ひさかたの天にしては下照姫に始まり あらかねの地にしては素盞嗚尊よりぞ起こりける」
ひさかた、これは天への枕詞で、あらかね、こちらは地への枕詞。
現代語訳は、こうです。
「和歌が世に伝わった始まりは、天上においては下照姫の歌で、地上においては素盞嗚尊が詠んだ歌」
ここがどうにも分からない。
お二人とも日本神話から来てるんです。
素戔嗚尊は、伊勢神宮に祭られてる、ご存知「天照大神(アマテラスオオミカミ)」の弟神。
そして下照姫は、素戔嗚の孫の子、つまり曾孫。
それでお二人とも和歌の始祖と位置付けられてる。
そしてここが分からない。
男歌、女歌の始祖なら分かるんですが、仮名序に書いてあることは違うんです。
和歌を、神々の世界に伝えたのが曾孫の下照姫で、人間界に伝えたのがおじいさんの素戔嗚尊だという。
普通、順序から行って逆なら分かります。
元々、天津神であった素戔嗚が天上界で初めて和歌を詠み、その曾孫が人間界で初めて和歌を詠んだ、というなら。
う~~~む???
☆天津神と国津神と和歌
日本神話において、神様の住む場所によって神様が区分けされているんですよね。
仏教でいう極楽、キリスト教などで言う天国、これが神道だと「高天原(たかまがはら)」
この高天原に住まう神を、天津神(あまつかみ)と呼びます。
一方、人の住むこの地上(日本)に住む神が、国津神(くにつかみ)。
素戔嗚は、天津神でしたけど姉神である天照大神とイサカイを起こし出雲地方に追放された。
ここからが現在に残る出雲神話の発祥です、有名なヤマタノオロチ退治も起こります。
そこでクニ作りを始め、子孫を残した。
孫神には大国主命(オオクニヌシノミコト)もいらっしゃる。
あのイナバの白ウサギの主人公ですね。
その大国主命の子の一人が、下照姫。
天津神から国津神になった素戔嗚が、地上で初めて和歌を詠んだというのは、分かる。
でもその曾孫の国津神である下照姫が、高天原で和歌を最初に読んだというのが、、じぇんじぇん理解できませなんだ。
それで昨日の記事をアップした後、少し調べてみたんですね。
☆それぞれの、和歌
やばし、ま~た長文記事になりよる💦
しかしここで止めては不完全燃焼、もうしばし我慢されたしm(__)m
まずは素戔嗚の最初の和歌がこちら。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
八雲というのは出雲にかかる枕詞。
八重垣というのは、何重にも張り巡らせた家庭と外界の境界線、もしくは新居。
出雲八重垣は文字通り、結婚のために新たに出雲に構えた新居。
妻籠みというのは、結婚して妻をめとって家庭に籠ること。
八重垣作るは、新居建築。
こうしてみると、ヤマタノオロチも含めて、出雲地方の神聖な数字は「8」だったんだろうかなんて思います。
そしてこの歌は、おろち退治を終えた素戔嗚がクシナダヒメと結婚する祝い歌。
出雲の地で妻を迎え、新居を建てている。それを祝うように何重もの雲が湧き上がってくることよ、という意味合いでしょうか。
そして曾孫神の下照姫の歌。
高天原に捧げた歌という背景を考えつつ、行きます!
「天なるや 弟織女の 項がせる 玉の御統 御統に 足玉はや み谷二渡らす 阿遅志貴日子根の神そ」
(あめなるや おとたなばたの うながせる たまのみすまる みすまるに あなたまはや みたにふたわたらす あぢしきたかひこねのかみそ)
この歌の背景はこうです。
高天原から、出雲を明け渡すよう交渉に派遣した神が8年も音信不通。
その神の名は、天若日子(アメノワカヒコ)
天若日子はこの時すでに下照姫と結婚しており、高天原に戻る気はない。
高天原は、音信不通の天若日子のことを調べるために雉(キジ)を放った。
ところが、天邪鬼(アマノジャク)にそそのかされた天若日子は雉を射殺してしまう。
そしてその矢は勢い余って高天原へ。
この矢を射た者の心が悪なら当たると言挙げ(自分の意思を明言する一種の呪術みたいなものです)
そして投げ返した矢は、天若日子の胸を貫いて命を奪う。
夫を失った哀しさに、下照姫は慟哭。
その泣き声は高天原にまで届き、天若日子の父神である天津国玉神と高天原での天若日子の妻子が弔いに出雲まで下りてくる。
そこでモガリ(死者を安置する建物・喪屋)を建て、8日8晩弔いの儀を行っていた。(またここでも8!)
そこに下照姫の兄である阿遅志貴日子根も弔問。
すると天津国玉神や妻子が、天若日子が生き返ったと喜び抱きついた。
阿遅志貴日子根は、「死者と自分を勘違いするとは許せぬ」と、モガリを破壊して立ち去った。
と、ここで読まれたのが下照姫のあの和歌だったのです。
歌の意味はこうです。
「高天原の織姫がなさっている玉の首飾り。その首飾りに良く似て輝いていますが、違うのですよ。あの人は、谷を二つ渡ってやって来てくれた私の兄神、阿遅志貴日子根」
☆下照姫の謎と、私なりの答
長くなったので、続きは明日としようかなと思ったけれどこのまま行きますね。
もう少々お付き合いをば、お願いいたします。
この下照姫の和歌が、何故、天(高天原)で最初に詠まれた和歌と言われるのか?
そう、この記事の出発点です。
素戔嗚の歌が地上で歌われた最初の和歌。
その曾孫のこの歌が、天で詠まれた最初の和歌?
ここで一気に日本神話から抜け出て、日本史へ。
日本神話から今も続いている家系は、天皇家です。
天皇家が象徴するのは、大和(ヤマト)民族。
そして大和民族に支配された一族の一つが、出雲族。
こうして考えると、見えてきますね。
元々、和歌の文化は出雲族の物だった。
そこを支配した大和民族が、和歌をヤマト歌と表記し、自分たちの文化に取り入れた。
こう考えると、素戔嗚と下照姫の最初の和歌についてすんなり説明ができますよね。
そしてもう一つ。
素戔嗚の和歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」は、5.7.5.7.7の典型的ヤマト歌です。
一方、下照姫の和歌「天なるや 弟織女の 項がせる 玉の御統 御統に 足玉はや み谷二渡らす 阿遅志貴日子根の神そ」は、5.7.5.7.5.6.9.13となっています。
なんか洗練されていない感じ、、、。
下照姫のこの歌は、ヒナブリと呼ばれるものなんだそうですね。
漢字にすると「雛振り」とか「夷振」、「夷曲」とも表記する。
これは、地方で生まれたあまり洗練されていない曲などが、宮中音楽に用いられるようになった時にそういう名称が付くんだそうですね。
高天原が天皇家をはじめとする大和民族中枢の象徴なら、素戔嗚と下照姫の和歌の謎も見えてきます。
素戔嗚の読んだ和歌が、出雲地方で広まった最初の歌。
そしてその曾孫が詠んだ歌が、大和民族に持ち込まれ宮中音楽として定着した。
いかがでしょう?
あ~疲れた(≧◇≦)
今回、古今和歌集の仮名序から始まって、和歌は元々出雲王朝の文化だったという仮説に行き着きました。
つまり、言葉という文字は、出雲民族発祥と言っても良いのではないかなと。
ちなみに和歌の訓読みは、「やまとうた」であります。
日本文化、深いですね、、、。