日高晤郎ショー・みとせの流行り歌2002年 その1
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☆ 日高晤郎ショーの1コーナー「みとせの流行り歌」二十一回目の記録
高瀬舟
平成14年まで来ました。
みとせの流行り歌の第20回は、11年前です。
今から11年前は、実はSTVラジオ40周年記念特別企画があって。
私、高瀬舟をやりましたよ語りで。
高瀬舟は札幌共済ホールで五月に。
八月は帯広市民文化ホール、で、函館まで行きました、函館芸術ホール、ね。
高瀬舟は難しい話です、まず笑いがありませんから。
だから朗読で出て、それは暗記ですね、そして最後も暗記のまま文章で終わる。
鴎外の文章で始まって文章で終わり、そして私の多少の演出は、同心羽田庄兵衞は京都弁のはんなりした、何故かというと一代限りですから。
他所の土地の人が入ってやるという同心ではないですから。
土地の言葉をしゃべって無いとおかしいんです。
当然喜助もそうですよね。
京都に生まれたわけですから。
だから鴎外はそこの所を全く、、、まぁ津和野の人ですから。
本当だったら方言は大事にしてもらいたかったんですが、鴎外が言いたかったことはそういうとこじゃなかったですからね、存続殺人だとか、法律って一体なんだ?罪人って何を罪と言うのだろう?
帯広での修羅場
思い出がありましてね。
帯広市民文化ホールですが、真ん中からちょっと手前で、ご婦人でした。
携帯電話が鳴ったんですよ。
ええ、私それも問題だと思ったけれど、もう二度とこの土地には来ないなと思うぐらい。
やっぱり芸人って命懸けてますから。
そりゃ駄目だろうと。
通話しちゃったんです。
今話聴いてるからさぁって、聴こえちゃったんです私。
開場がざわつきましたけれど。
どうしたもんかな、あれは一体。
これはですねぇ、、、。
しかも高瀬舟ですから、私、間に、、、これが桂文京だったら出来る、ひょっとしたらね、話によっては。
で、話によっては、なんです。
だからお客さんイジリってのはまず難しいんですよ。
不文律では私の中では無いと思ってます。
それは自由で良いと思うのだけれど、芸風として消化できるもの。
でもこれは暗澹たる思いでしたね。
もう一転してホールが地獄になりますから。
どうしたもんだろ、これ。
で、誰がどうしたのか本人が気づいたのか分かりませんけど、永遠じゃなかったけど通話はしてましたね。
もうこの神経が分からなかった。
忠臣蔵別伝 澤村淀五郎
悲しいですよ、お客様がたくさん来て下さって私共が芸をさせていただくって、良い事ばかりじゃないです。
そりゃあ修羅場なんですわ。
はい、だから手には持ってないけど心ン中には白刃の刃を持ってひょっとしたらテメェの腹を掻っ捌くかもしれないという修羅場なんで。
語りをやったら一週間、ディナーショーでも三日間は死んだようなもんです。
それからやっと生き返るんですが、今年のディナーショーはでも死ねます。
それくらいの所には来ました。
境地がですよ、あくまで。
で、そんなこんなで振り返ると思い出します。
そして語りを聴く会が、この時に私、実は忠臣蔵の外伝ではなくて別伝という。
列伝でもなく全く別個の話で現在の澤村淀五郎。
で、これを札幌市民会館でやらせていただいて以降一回もやって無いんですよ11年間。
で、この度、11月に、自ら祝日にしてくださいな祝ってやってください。
11年間経ってまだこれを練り上げてやれるという、私自身のできたら元気もそれから練り上げていくという力も祝って頂けたら、私にとっての祝日にして頂ければ幸いです。
堀内孝雄 かくれんぼ
1000回のスペシャル、やりましたね。
ヤマダ電機がまだスピカという建物だった頃、ゲストはこの人でした。
勿論この人だけではないんですが、五木さんが来てくれ、島津亜矢が歌い、横であれ松崎さんでしたよね感動しちゃってねあれが二日酔いのくせに耳だけは確かで。
ちょっとごめんねって言って楽屋で吐いてまた戻って来るってね、それでも歌ってたから。
凄かったなぁ1000回、一杯のお客様でね。
堀内孝雄のヒット曲はこの年でした。
かくれんぼ
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