晤郎さんから母子の縁をつないでもらった話
☆出生の意味を教えてくださった晤郎さん
30数年前。
九州から北海道に越してきて出会った日高晤郎ショー。
楽しい放送の面だけで最初は惹かれていたが、晤郎さんの出生や御幼少の頃を知るにつけ、より深い部分で魅入られてしまった。
堂々と、出生を語る晤郎さん。
眩しかった。
実は私も同じ。
本当の親ではなく、しかも私を理解しようとしてくださらない二人だった。
これは傷で、誰からも隠しつづけようと、その姿勢で生きてきた。
日高晤郎さんに出会うまでは。
質屋で買った200円の青いラジオに耳を傾けて、どれほどの涙を流したろう。
でも確実に、涙の数だけといえばかっこいいけれど、涙を流すたびに私は確実に強くなっていったんだと思う。
本当の親がわからない。
今の親が自分を理解してくれていない。
それがなんだ、今が充実して幸せならば、それで充分じゃないかと。
傷口を隠すと治りが遅くなる。
傷口は、陽に晒すのが一番。
そう晤郎さんは、ラジオを通して私達に語りかけていたっけ。
そして私は、晤郎さんへ私の出生と育ちの事を手紙にして投函した。
晤郎さんは、それを番組で読んで下さって、ご自分の人生観を重ねて伝えて下さった。
もう20数年前の話になる。
☆私に、母へと踏み出す力をいただいた北の出会いとホール公開
2015年1月24日の北の出会いは、晤郎さんとお母さまとの思い出。
お母さまが病床から体を起こして「堪忍な、、、と言いながら泣くんだよね、、、この二日後に亡くなるんだけど、、、ウチはな、あんたのお父ちゃんの事、ホンマに好きやったんや、、と泣くんだよね、、、最後に父とのノロケを聴かされて、全部消えた。ああ俺は、愛し合った男女の子なんだと知らされた。それでこれまでの辛さが全部消えた、、、この世に、祝われてない子なんかいない、愛されてない子なんかいないと。俺が俺を好きになれた、母親の命懸けの台詞だったと思う。」
その最後に、こうも仰った晤郎さん。
「親への恩を返すのに、手遅れは無いよ。」
その言葉は、私の胸に刺さったまんまとなった。
そして翌々週のホール公開。
オープニングで晤郎さんは、こう仰った。
「どなたにも大切な人は居ます。今日のテーマは、あなたの大切な人に『有り難う』を伝えてますか?」
直後、晤郎さんは中央3列目の私に3秒ほど目を合わせたまま、ほんの少々微笑んだ。
それは間違いなく、晤郎さんからの伝言だった。
実は、北の出会いで晤郎さんのお母様との思い出話に触れた後、晤郎さんに出した手紙があった。
「九州の生母の住所が判明し、年賀状のやり取りは出来るようになったんですよ。」という手紙。
その手紙への晤郎さんからの返信が、あの3秒アイコンタクト。
晤郎さんは普通、ホール公開で私ごときにアイコンタクトなど絶対にされない。
なのに、3秒も。
、、、これが、独特な阿吽の呼吸。
アイコンタクトの意味するところはすぐにピンときた。
私の大切な人、、、私の場合、生母だった。
☆生まれて初めて、「お母さん」と書いた手紙
そのホール公開終了後その日のうちに、私は生まれて初めて、生母に対し「お母さん」と書いた手紙を出した。
物凄く照れたのだが、晤郎さんのあの時の目の残像に、背中を強く支えてもらって照れをどうにか抑え込めた。
同時に、そのことをホール公開に添えて晤郎さんに報告する手紙も書いて、二通の手紙を同時投函。
母からは、その週のうちに返信が来た。
互いに、どこか他人行儀で。
互いにどこか照れた笑顔で。
晤郎さんはその時の手紙を晤郎ショーで読んで下さって、こうコメントを下さった。
「間に合ったんだね。有り難うをお母さまに伝えられて。正しく伝えるという事は、生きる力に変わりますから。良かった。」
私の人生の、幾つ目かの転換点。
☆私は、日高和彦だったという話
私がガラパゴス携帯からスマートフォンに換えた時、母も同じauにして親子登録。
電話代が無料になる親子登録。
これも晤郎さんがご存命の時の話。
それから段々と、私と母の見えない壁も消えていき、現在では、母ともよく電話する仲に。
その母が、私の出生を語ったときはやはり衝撃。
私の父方の姓は、日高だという。
お~、では日高和彦だったの?
そう尋ねたら、さらに衝撃の回答。
「それは知らん。お前が腹に入っとる時に分かれたったい。分かれて生まれて、和彦って私とおっかさん(私の祖母)とで名付けたったい。」
え~~そ~なの~~~( ゚Д゚)
「あの家におったら、違う名前つけられたじゃろうねぇ。」
まぁ、良しとしよう。
キラキラネームだったら、いくら苗字がそうでも、やはり困ったろう。
何でもそうだが、今が一番良いと信じてるし疑わない得な性格なのだ。
☆晤郎さんへ
今日は子供の日。
なので、この話を記しました。
今でも母とは良い関係です。
晤郎さんが晤郎ショーを続けていて下さらなかったら、絶対につながることの無かった絆です。
COVID-19蔓延の中、私自宅のマスクや消毒液を気にかけてくれる母です。
生きている内に、有り難うを何回も何回も伝える事が出来ています。
晤郎さん、改めて、有り難うございました。
私達は、元気です。
豊平区 和彦