拙者、親方と申すは、、、

☆日高晤郎さん体調不良の兆しに

2018年1月下旬から2月初めにかけて、私は神奈川県小田原市や東京の歌舞伎座を見て回りました。
「ういろう買いに行きました」参照
晤郎さんが検査入院された時期です。
前年秋よりスタジオで間近で晤郎さんに接していて、明らかに何かしらの晤郎さんの変化を感じ続けたのも、この関東旅を決意した理由。

小田原には今でも、ういろうが在ります。
私たち晤郎さんファンにはお馴染みの口上「外郎売」(ういろううり)の背景の店です。

まさかあんなに急激に悪化し、あんなにお別れが早くなるだなんて、この度の時点では予測できていませんでした。
ですが、日高晤郎さんの体調悪化の兆しを感じ、お別れの前に自分に何ができるかを考え抜いた結果が、この関東への旅だったのです。

晤郎さんが大切にされている活舌法としての口上「外郎売」。
それを晤郎さんへの感謝を込めてこの身に刻み付けたい。
ただ、その思いばかりでした。
日高晤郎さんの、鷹の羽のぶっちがえと共に

☆外郎売(ういろううり)とは何か?

まずはこの話から。
建久4年(1193年)の曽我兄弟の仇討ちは、日本三大仇討の一つとも呼ばれ、武家社会では模範の一つとなっていきました。
江戸時代になると、これらは「曽我物語」として体系化され、能・浄瑠璃・浮世絵・そして歌舞伎の題材にと取り上げられ、庶民の人気を博したということです。

次にこの話を。
外郎とは、神奈川県小田原市に現存する製薬会社。
平仮名で、「ういろう」と表します。
創業以来約650年間」、支店を作らず本店一店のみ。
ういろうには二種類あって、一つが、仁丹のような銀粒の、「薬のういろう」。
もう一つが、薬のういろうでは口中に苦みが残るのでと作られた「お菓子のういろう」。
お菓子のういろうは、各地でその真似をして、作られ拡がっていきました。
しかし、薬のういろうは小田原の外郎家のみで製造販売。
なので江戸時代には、行商という形で江戸にも販売網を広げていたみたいです。
その行商が各地で述べていたであろう薬のういろう売り口上を、歌舞伎演目として新たに創作したのが二代目市川團十郎その人でありました。

歌舞伎の外郎売は、享保3年(1718年)正月に、江戸の森田座で初演。
のちに、歌舞伎十八番の一つに数えられます。

歌舞伎の外郎売の、簡単な流れはこう。(ここでは長くなるので、正しくは皆さんそれぞれ調べてね)
仇敵・工藤佑経の前に外郎売の行商人の変装で現れた曽我十郎(たまに弟の五郎で演じられる場合もあるらしい)。
相手に気取られぬために、その場の皆にスラスラと外郎売の口上を披露して見せる処が、最大の見せ場。
歌舞伎演目の外郎売は、その演目中の長台詞(ながぜりふ)のみを指すことも多く、後年、俳優やアナウンサーの活舌法として用いられることも多いということです。

日高晤郎さんも、活舌法としてこの外郎売を生涯にわたってやっておられました。
そしてどうしても、晤郎さんにとっては只の活舌法というだけではなかったんじゃないかと、私、思うんです。
そのことは、おいおい書いていきますね。
歌舞伎十八番

☆外郎売・冒頭のセリフ

「拙者親方と申すは、、、」
これ、外郎売口上の最初。
現代語に直すと、「僕の上司は」とか「オイラのボスは」
う~~ん、ちょっと違うか(;^_^A
「私の親方は、こういう方なんですよ」という、自分の親方の説明から入るのが、口上・外郎売です。

このセリフには、自分の持ってる技術だけじゃなくて、人生観さえ、親方に教えていただいたんだという敬意が込められているんですよね。
ちょっと謙虚に、ちょっと自慢気に、そしてかなり誇らしく。
そんな始まりをしていく口上・外郎売に、私は段々のめり込んでいきました。
口上・外郎売の親方に、日高晤郎さんを重ねながらです。

そんな話を、このブログ開始してからそろそろ10ヶ月、始めて行こうかなぁだなんて思い始めている2020年のお盆であります。
晤郎さん参拝の場・千の杜札幌東分院1階特設会場

< 私の「外郎売」に、出会うための旅Part1に続く


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