外郎売~嘉兵衛
☆複雑な、言葉遊びと粋を読む
さて今日は、今私が悩んでいることを書きます。
日高晤郎さんが大事にされていた「外郎売口上」について、です。
晤郎さんの外郎売口上をずっと聞いていまして、ほぼ大部分の方がそれを暗記して活舌法をして楽しんでらっしゃる場面は、見てきました。
ところが、これは全くの外部の偉い方もそうですが、あれは単なる言葉遊びで、あの文章に意味などないと断言される方ばかりなんですね。
私はそうは思えなかった。
だいたい二代目市川團十郎さんが、そんな意味の無い言葉の羅列を舞台に載せるわけがないと。
第一、歌舞伎の外郎売口上は、実際に小田原の「ういろう」家への感謝を表すために作られたものですから。
いい加減に仕上げるわけはありません。
それで2018年に晤郎さんが旅立たれてから、哀しむより残された学びの道を一歩でも前へと歩いてきています。
他の部分の意味はかなり掘り下げられたのですが、なかなかどうして苦労しているのが「嘉兵衛」の部分です。
☆嘉兵衛について
外郎売口上で、こういう部分があります。
「親も嘉兵衛、子も嘉兵衛。親嘉兵衛子嘉兵衛子嘉兵衛親嘉兵衛。」
なんのこっちゃこの文章は?とお思いでしょう。
パッと見、駄文です。
なにを言ってるのかわかりゃしない、いや、分かろうとするだけ無駄。
これは言いにくい事を早口でまくし立てる見世物なのだから、と思われています。
外郎売自体がそういう扱い。
なんとも、それが私には面白くない。
二代目の市川團十郎さんですよ、あなたがた舐めてませんか?と内心こっそり叫ぶ私。
ではこの文章に、当時の江戸の風習や政治への風刺や笑いが込められていると証明して見せようというのが、私のひっそりとした戦いなのです。
というわけで「親も嘉兵衛、子も嘉兵衛。親嘉兵衛子嘉兵衛子嘉兵衛親嘉兵衛。」この部分ついて、現在分かったことを書き記します。
嘉兵衛というのは、江戸時代に良くつけられた名前だったそうです。
読みは「かへい」。
〇兵衛とか〇衛門というのは、江戸時代では大変人気の名前で、これは親から子へ受け継がれたというんですね。
ある研究によりますと、なんでも江戸時代の男性の名前の4割は〇衛門か〇兵衛だったとか。
つまり、嘉兵衛と言っても当時は、耳にしたことのある名前であったことは間違いないようです。
☆親も嘉兵衛、子も嘉兵衛の意味するもの
話は戻って、「親も嘉兵衛、子も嘉兵衛。親嘉兵衛子嘉兵衛子嘉兵衛親嘉兵衛。」
これは、商家などに特にみられたことらしいですね。
つまり〇代目◎家嘉兵衛とか、ありますでしょう。
家業の伝統をも表す名前として。
ということは、普通にあるんですね、起こりえる。
親が嘉兵衛で、子も嘉兵衛という事が。
これは珍しい事でも何でもない。
問題はこの後です。
「親嘉兵衛子嘉兵衛子嘉兵衛親嘉兵衛。」
ただの語呂でしたら、そうも面白くない。
面白くない言葉を二代目市川團十郎さんんが紡ぐわけがない。
この視点から紐解くと、これは仮定ですが、この部分の嘉兵衛は、人物名と「貨幣」の意味を二つこめているのではないかと思うのです。
実にこの二重の意味込めを、團十郎さんはこの外郎売で随所に行っています。
この視点で語ると、前半の意味はこうなります。
嘉兵衛さんの親のお金、そして子のお金。
この流れで、後半の嘉兵衛を同じ理由で「変えい」とすると、遺産相続の主導権争いに見えてきます。
親の方に名を変えいという息子、いいやお前こそ名を返せという親。
そんな風に商家のお家騒動らしきものが見えてきます。
嘉兵衛、貨幣、変えい。
こういう言葉遊びをされるんですよね。
それでまた、歌舞伎の舞台でサラリとそれをやられたら、観衆はヤンヤと大うけでしょう。
これが現時点での私の外郎売「嘉兵衛」部分の仮説。
あとは1650年~1702年あたりにそういった商家の騒動がなかったのか、文献を探している最中です。
舞台で受けるには、江戸町民が知ってる話ではならないので、きっと文献が残っているはずなのです。
日高晤郎さんに手渡された歌舞伎十八番の晤郎流外郎売。
こうして私は今でも、楽しみながら勉強中です。
以上、途中経過報告でした。