☆フェリーの思い出

2011年。
そう。
あの東日本大震災が起きた年。

晤郎さんが小樽で、紺屋高尾を一人語りされた年。

紺屋高尾を聴き終えた足で私は子供を連れて、小樽発舞鶴行きのフェリーに乗ったんです。
親子での、人生を変えるほどの衝撃が待ち受けていた旅でした。
この写真、その新日本海フェリーのホームページの写真。
こういう感じのエリーターミナルなんですね、小樽は。
懐かしい、、、。
小樽フェリーターミナル

新日本海フェリーの航路は、こうなっています。
小樽から、舞鶴へ。
見づらいですね、ごめんなさい。
新日本海フェリー航路

夜遅くに小樽を出たフェリーが、舞鶴に着くのは23:30あたりだったと記憶しています。
舞鶴フェリーターミナル
そこから、幼い子二人と深夜バスで大阪へ。
大阪では、ファミリーレストランで夜を明かし。
当時24時間営業の店はたくさんありましたからね、そんな時代です。
そして翌朝、新幹線で熊本へと。

まぁ、子供達には難行苦行の旅でした。
今そんなことをやって、SNSで公表したりするときっと一部の人から叩かれるんでしょうね。
児童虐待だとか言われて。
発表したこっちは自動虐待されるという構図。
まぁそれは置いといて。

この旅で、新千歳から熊本まで飛行機使えば、子供達への負担もなかったんでしょうが。
なにか将来災害でも起こったときに、子供たちにそれを乗り越えられる何かを身に付けさせたかったんですね。
結局、身に付けられたかどうかは未だにわかりませんが、親としてはそんな思いも込めた二週間ほどの旅だったんです。
小樽フェリー

☆息子からの申し出

子供って、あれですね、生意気になりますね。
あんなに可愛かった子供が、どの辺あたりからか、親を嫌悪するようになる、というか、距離を置かれるようになる。

これは正しい成長の結果であって、親は悲しんではなりません。
こういうものなのです。
この反抗期があるからこそ人類は、世界中に散らばって繁栄できたのですから。
いやこれ、本当の話。

我が家でも例外ではなく、そういう道を歩いて、やや一人前の人になりつつある息子。
その息子から一昨日ラインがありましてね。
「旅がしたい」って。

そりゃ親子ですから、ピンときます。
こういう時はあれこれ聞いてはいけないですね。
「ほう、そうかい。それは良いね、行きなさい行きなさい」と、こう言わなくちゃいけません、親はね、それで良いんです。

そうして会話してたらね、言葉の端々に感じるんですが、どうも昔のあの厳しい旅が懐かしい様子。
更にそのことに、当の本人が気づいてないという。
だから、長距離の船旅を勧めたんです。
そしたら突然顔つきが変わった。
パッと明るくなりましてね。
昔いつもくっついてきた子供の顔でしたよ。
ああ懐かしいなとか思ったりしましてね。
きたかみ

宿と移動がいっしょくたになって、ぼーっとできて、悩みとかこれから進む道とか考えるには良いんです、船旅は。
そしたらまぁ先ほどね、今日出発するよって連絡が来ました。
船ですって。
きっと何かをつかんでくるでしょうし、昔が役に立ったことが親としてこれほどうれしいことは無いんです。
冥利に尽きるとは、こういうのを言うんでしょうね。

☆太平洋航路

北海道から出てる長距離航路は、先述の日本海航路ともう一つ、太平洋航路がありますね。

こちらは、苫小牧から出てる。
ここも私、好きでしてね。
若い時分は随分使わせていただいたもんです。

こちらは、名古屋まで行ける。
二泊三日の旅となりますが、日本海航路よりも九州に旅するには、交通の連絡も格段に良いしお勧めのコースなんです。

ではなぜ、あの昔の旅の時に、私は日本航路を使ったのかというと理由は二つ。

一つは、晤郎さんの一人語りの会会場が小樽であり、その日の夜に旅の始めを決めたこと。
語りを聴いてすぐフェリーターミナルに移動できたからなんですね。

それともう一つは、フェリーが舞鶴に着いてその翌朝までの連絡の悪さにあるんです。
万事スムーズにいかない方が、家族として一緒に考えて行動できますし、子供たちが受け身の旅にならないからです。

旅に出る息子にも、自分の頭と足で、今回もなるべく不便な旅を過ごしてきてほしいなぁと思うのは、私の中の親心であります。
不便な旅を望むだなんて、、ねぇ。
まぁ普通の親と違ってごめんよなんて、心の中で思ってる日曜日であります。

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