日高晤郎さんと、ジャイアント馬場さん
☆日高晤郎さんとジャイアント馬場さんの、系譜の交差
先述したが、晤郎さんは馬場さんの事が好きではなかった。
晤郎さんご自身が仰っていたが、なんとなくのイメージでの受け付けないんだよねと。
でももしかしたら、お会いする機会があったならば、晤郎さんはジャイアント馬場さんを好きになるんじゃないかなという思いはあった。
馬場さんは無類の読書好き。
プライベートではキャンバスに向って油絵を好んで描いた。
外人レスラーを契約する際に契約書は用いず全て口約束。
ギャラを含め、その口約束は一度たりとも破られたことはなく、やがてその信頼関係の輪が拡がり「世界の馬場」とまで言われるようになる。
☆ジャイアント馬場没後20周年記念企画in札幌
2019年夏。
札幌で、ジャイアント馬場没後20周年記念企画、ジャイアント馬場展が開催された。
会場の札幌東急催事場で初日に出会ったのは、自分がいかにプロレス好きかを放送前にスタッフに熱弁する人。
晤郎イズムを継承している、STVアナウンサーの福永俊介さんだった。
☆ジャイアント馬場さん逝去と、系譜の台頭
そう、あの時は心底辛かった。
誰もがそうだろう。人生のヒーローを永遠に失う瞬間、その人にとって世界は崩壊する。
1999年1月。
ジャイアント馬場さんがお亡くなりになった時、私は本当に三日間泣いた。
本当に、三日間食事が摂れなかった。
もうプロレスファンは卒業だなと思っていた。
しかしその混沌の中、馬場プロレスを継承発展させていく若手レスラーが現れた。
そう、ただ、会社を引き継いだのではない。馬場イズムを引き継いだ真の後継者が、自らの意思で立ち上がってくれた。
その人は、三沢光晴選手、後の三沢社長。
やがては馬場夫人との対立もあり、馬場さんが立ち上げた全日本プロレスを退団し、プロレスリングNOAHを新たに立ち上げ、2000年代初めにはブームを巻き起こしていく。
こうして馬場プロレスの「受け」や「精神」は継承されて行ったのだった。
「晤郎ショーと、三沢光晴さん」に続く